(参考)「にじ」誌創刊号(1980年7月)
「発刊にあたって」
「にじ」創刊の想いが込められた創刊号冒頭の文章をご紹介します。
雨上りの大空にかかる雄大なにじは、七つの色を持つが故に美しく、それを見る人々に明るい心を与えてくれるものです。私たち七人の仲間は、この小冊子を明かるいさわやかなものに育てて行きたいという願いから、「にじ」と名付けました。
振り返ってみますと、現在の寺における教化活動の助力となるような印刷物を作りたいと、会合を開くようになってから約一年が過ぎました。その間、出版の母体となる会をどう作るか、会の構成はどうするか、出版物の特徴・内容・名称等多くの問題に、時には深夜まで激論を交しながらの準備期間でした。そして、今ようやく形にあらわすことができました。
こんな小さな印刷物で一体何ができるのかといわれるかも知れませんが、現代社会・特に東京という大都市で私たちが見失いかけている「人間としていかに生きるべきか」という人生の大問題を明らかにしてゆく一翼を担いたいと願って、発刊に踏み切りました。
東京という都市は、科学万能の物質文化によって巨大化し、人間の心をむしばみつつあります。あらゆる物が合理化され、既製品化されてゆく中で、日常生活は日に日に便利になってきましたが、それにつれた、自然環境は破壊され、人々の心は荒廃してゆく一方です。
多くの人々は、目前の出来事に対応するのに追われて、自分自身の生き方を振り返えろうともしません。それどころか、手相や家相・方位等の占いに大切な人生をまかせている姿は、あたかも大地に根をおろすことのできない、水面に漂う浮き草のようなものです。
私たちみんなの宗門である真宗大谷派は、新聞等の報道で知られる通り、十年来の紛争のただ中にあります。この紛争については、今後紙面をさいて触れてゆく中ではっきり出来ると思いますが、一分の報道でいわれるような、単なる財産や権力を目当てとした紛争ではありません。そこには、真に念仏の教えを教団のいのちとして取り戻すために、住職・門徒一人一人が真剣に取り組まなければならない重大な問題があるのです。真宗門徒でありながら、この現状から目を背けて、まるで他人事のように傍観している生きざまは、まさに浮き草そのものです。
人間には、自分自身の奥底から「私の人生はこのままでよいのだろうか」と呼びかけてくる声があります。私たちはこの声を自分自身の生き方を振り返る大切な声としてしっかり受けとめ、占いや迷信にまかせることなく、自身を主体的に生きようとする歩みを踏み出さなければなりません。その歩みは「人間としていかに生きるべきか」という人生の大問題を明らかにしてゆくことであり、念仏の教えに遇う歩みとなるのです。
私たち七人の仲間は、それぞれ身の回りの出来事を通して、ひとりの人間として、ひとりの真宗門徒として、人生の大問題を念仏の教えに聞いてゆきたい。そして、その中で感じたこと、考えたことを発表し、皆さんと共に人生の問題を語り合える場として、この小冊子が育まれてゆくよう願って止みません。