正應寺縁起

 

【正應寺縁起】

 当山は「四谷山正應寺」と号し、正應3年(1290)三河の国に創立され、天台宗に属し、年号を以て寺号とするほどの由緒ある寺院であった。三河の頃の所在地など不詳だが、開基は1184年の宇治川の合戦の先陣争いで有名な鎌倉時代の武将、佐々木四郎高綱の末孫と伝えられている。因みに正應3年は親鸞聖人没後28年後であった。
 その後、浄専権律師が徳川家康の江戸入府に伴って上京、江戸に移っても正應寺と号すべしとの命により、麹町清水谷(現千代田区紀尾井町周辺)に寺域を拝領し一宇を建立した。その時、本願寺12代教如上人の弟子となり、浄土真宗に改宗した。時に慶長11年(1606)3月であった。後年。江戸城外堀築造のため、寛永11年(1634)1月19日3代将軍家光より現在地を換地され、山号を四谷山と賜った。爾来、徳川家の帰依殊に厚く由緒ある寺として、明治に至るまでは代々の住職は、勅任権律師に補せられた。御本尊阿弥陀如来は、恵心僧都の御作と伝えられ、家康公は霊仏として、殊に崇敬深かったといわれる。
 記録によれば、昔は四谷草分けの寺院として末寺2ヶ寺をもつ宏壮な構えであったというが、数度の火災にあい、殊に安政6年(1859)2月22日青山近江守邸より出火し、板橋まで44ヶ町を焼き払う大火では、鐘楼を除く什器宝物は悉く烏有に帰したという。尚、当山の梵鐘は、慶安4年(1651)に鋳造された名鐘という。
 更に、明治維新の変遷から武家檀徒の離散となり、困厄の極に達した時代もあったが、明治22年(1889)本堂を新築、更に大正10年(1921)本堂増築、客殿書院、庫裡の新築により、旧観をとり戻すことができた。然しながら、第二次世界大戦の空襲により、昭和20年(1945)5月25日本堂以下悉く灰燼に帰したことは、惜しみても余りあるところであった。
 昭和29年(1954)、責任役員を中心に壇信徒各位の熱意により、書院・庫裡の新築を経て、昭和49年(1974)4月現本堂の落慶を迎え、現在の姿となった。そして平成23年(2011)、門徒各位のご協力のもと、本堂・書院・庫裡等の改修工事を完了し、現在に至っている。